弓木城

別名 稲富城
    一色城
付近住所 京都府与謝郡与謝野町弓木 現在 城山公園
2010/4/29 碑・案内板アリ 日本城郭大系


稲富氏 京都府与謝郡岩滝町の一帯は律令国家の時代には拝師郷とよばれる行政地域の西方にあたり与謝群衙の存在も推定されています。鎌倉時代になると岩滝町から宮津市須津にかけては稲富保とよばれ摂関家近衛家の所領となりました。弓木城はこの稲富保を名字の地にした稲富氏が室町時代後期以降、中世の山城ですがそのくわしい歴史はわかっていません。稲富氏については「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり丹後忌木(=弓木)の城主たりし以来、改めて稲富氏となる。」とあり初代稲富氏の元の姓は山田氏で丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名のった事になります。そして二代目直時の時に丹後守護一色氏の家臣となったようです。ところで「丹後国御檀家帳」には「いミの木」の大なる城主稲富氏他4名を挙げてこれとは別に「いミの木の地下」にそうめん屋他の名を挙げています。天正10年(1582)織田信長の命令を受けた細川藤孝(幽斎)・忠興(三斎)父子の丹後攻略によりいっとき丹後一色氏は弓木城に籠りましたが抗戦のかいなく滅亡しました。四代直家は希代の鉄砲の名手として一色氏に仕えていましたが運よく滅亡をまぬがれいっとき細川氏に仕えた後、豊臣秀吉・徳川家康に珍重され晩年は尾張徳川家の祖 義直(家康の第9子)に仕えました。今日の丹後弓木城は一色氏最期の地としてあまりにも著名ですが、もともとは稲富氏の居城であり丹後の中世山城を代表する弓木城の滅亡はまさに丹後における中世の終焉を象徴する画期的な事件であったといえましょう。